阪神淡路大震災で被災、全壊となった神戸新聞・デイリースポーツの社屋=1995年1月26日撮影
30年前の1月17日、デイリースポーツは発行の危機にひんしていた。阪神・淡路大震災によって兵庫県神戸市のJR三ノ宮駅前にあった本社ビルは機能不全に陥り、自社での新聞制作は不可能になった。手を差し伸べてくれたのは東京・木場にあった日経印刷(現日経東日本製作センター)。刻々と時間が過ぎる中、神戸-東京-大阪-神戸と奇跡のバトンがつながった。「助けて!!」という生々しい見出しがついた紙面はいかにして作られたのか。その過程を関係者の証言、震災3年後に編集された50年史などを元にひもとく。 【写真】「助けて!!」震災翌日のデイリー1面 ◇ ◇ 午前5時46分の地震発生からおよそ4時間後の午前10時ごろ。デイリースポーツ東京本社報道部長・宮本良介と神戸新聞社制作局次長・林一成の間で交わされたという電話の記録が残されている。 「夕刊は出せるか」(宮本) 「とてもやないが、あかん」(林) 「朝刊は?」(宮本) 「無理や。それどころやない。当分あかん」(林) 宮本は、林の言葉で事態の深刻さを受け止めた。神戸本社の社屋、ホストコンピューターは壊滅的に損傷。自社での新聞制作を断念せざるを得ない状況に追い込まれていた。 親会社である神戸新聞社本体は、京都新聞社との間で震災前年の94年に緊急事態発生時の「新聞発行援助協定」を締結しており、京都新聞での新聞制作へかじを切った。だが、デイリーは独自の判断を求められた。編集局長・三谷敏明は大阪の印刷会社へ制作を要請したが断られていた。いちるの望みは東京に託された。 JR大崎駅付近にあった東京本社は、案内広告で付き合いのあった東西線・木場駅近くの日経印刷への依頼を決断。同社の総務部に電話を入れた。社長・寺畑光朗は人間ドックを受けており不在。事情を説明して電話を切った。宮本は、東京代表・豊田博和と直談判に動いた。 「『日経に行きましょう、それしかないんだから』って。あの時の宮本さんは頼もしかった」。当時、東京報道部次長だった岡本清は宮本の毅然とした姿を思い起こす。 岡本は冒頭の電話のやりとりを始め、震災発生後の動きをドキュメントとして記録。17日分には、そこからデイリーに光が差し込む展開が記されている。 「(豊田、宮本が)地下鉄を出たところで、前を歩いているのが寺畑社長。事情を説明すると『考えてみましょう』。社に着いてすぐ、制作幹部を招集。既にその時点で前向きな検討に」 寺畑は会社からの連絡を受け、ドックを切り上げてくれていた。午後1時、受諾の報は神戸本社に届けられた。 当時デイリーは朝刊に加え、東京でレース主体の夕刊を発行していた。見出しやレイアウトを担当する整理部門は神戸本社に集約されていたため、東京在住の整理経験者であるレジャー芸能の新藤正ら4人が緊急招集された。そのうちの1人、鈴木創太は15日に神戸の整理部から東京本社に異動したばかりの新人記者で取材先の両国国技館から木場に合流した。「原稿は地震しかない。ストレートに惨状を訴えよう」。整理マンだった宮本が呼びかけた。 用意された小部屋が臨時編集局となった。電話とファクスが引かれ、大崎の東京本社からは手打ちされた共同原稿や吹き込み原稿が送られてきた。割り付け用紙との格闘が始まった。新聞が出せないかもしれないという不安は消え去り、OBらもかけつけた臨時編集局は熱気に包まれた。 日経印刷で働いていた大勢の女性オペレーターらは、初めて経験するスポーツ紙制作に戸惑いながらも通常の勤務時間を超えて作業を続けた。レースの出走表などの組み立ては日経新聞本社が引き受けてくれた。 定刻を過ぎたものの夕刊紙面が完成。朝刊作業へのメドも立った。関西用の朝刊は通常の約半分しかない12ページ。最後に完成させた白黒の1面には「助けて!!」の大見出しがつけられた。考案した新藤は言う。「最初は震度とか地震の状況を伝える見出しだった。それだと続報が入ってくる他社にはかなわない。これからどうなるか分からない、切羽詰まっている実情を訴えたかった。地元にしてみれば『助けて』が一番じゃないかと思った」 応援部隊として午後2時過ぎに神戸本社から東京に出発した整理部の瀬川大次郎ら4人は午後9時過ぎに木場に到着した。「母さんを頼むぞ」と高校2年の息子に告げて、着の身着のままで家を出ていた瀬川は、下はパジャマ姿。すでに組み上がっていた「助けて!!」の1面に胸を熱くした。「奇跡やな。ここまでようやったと思った」と述懐する。 完成した紙面フィルムを神戸に届けるルートも、寺畑の提案で確保され、木場-日経新聞東京本社-日経新聞大阪本社へと電送。待機していたバイク便が渋滞が続く深夜の悪路を、フィルムの入った筒を携えて西へと向かった。目的地は被害を免れていた神戸市西区にある神戸新聞社の印刷工場、製作センター。到着したのは18日深夜1時過ぎだった。 製作センターに詰めていた整理部副部長・小笹誠治が残した当時の記録には「輪転機がごう音を立てて回り始めたのは18日午前2時02分、4時00分刷了。感動的な一瞬だった」とある。 年月を経ても、当時の気持ちの高ぶりは鮮明によみがえる。小笹はインキのにおいのする新聞を手にした瞬間を「ザッザッザッって輪転機から新聞が出てきて気持ちがいっぱいになった。新聞の形をしていることが大事だった。発行が途切れたら取り返しがつかなかった」と振り返った。 休むことなく新聞を出すという個々の執念。即断に近い形で思いを受け止めてくれた日経印刷によってデイリーは生きながらえた。綱渡りの新聞制作から30年。被災地の惨状、悲痛な声を表現したあの日の紙面は、今なおデイリーの象徴であり続けている。(敬称略、肩書は当時)=デイリースポーツ・若林みどり
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